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南方の死闘(予告編)

新設コーナーです。
ここでは太平洋戦争中の南方戦線での死闘を記していきたいと思います。
中国戦線なども後で紹介します。

↓公開予定順の目次です。
①南方の死闘〜ニューギニア〜
②南方の死闘〜孤島ビアクの玉砕〜
③南方の死闘〜マキン・タラワの激戦〜
④南方の死闘〜比島決戦〜
⑤中国戦線〜大陸打通作戦〜
⑥中国戦線〜中国玉砕の地〜
⑦中国戦線〜雲南の戦い〜
⑧北方戦線〜アッツの地獄、キスカの天国〜
⑨北方戦線〜ソ連満州侵攻〜
⑩北方戦線〜ソ連千島列島侵攻〜
(必ずしも時代順ではない)

今、物語調にするか、ただ単に戦闘経過を記すか考えています

乞おうご期待

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日本軍人評価~一木清直 編~

Photo_14 一木清直(いちき きよなお)大佐(戦死後 少将)を紹介します。

ガタルカナル島の先遣隊 一木支隊の指揮官で有名な彼ですが、廬溝橋事件時、少佐で牟田口に攻撃命令を受けたことでも有名です。

彼も「断然攻撃したい」と述べていたように、中国軍への攻撃には積極的だったようです。

もともと、一木支隊はガ島作戦のために編成されたのではなく、ミッドウェー島占領任務を目的として編成された。

しかし、ミッドウェー海戦の敗北により支隊はグアムへ一時駐屯。

その後、ガ島がアメリカ軍により奪われたため、奪還のため上陸。

916人の小部隊は強大な米軍(米軍は始めに島にいた飛行場設営隊の戦力を過大評価していたために、大軍を上陸させていた。)の前に壊滅。彼は戦死し、軍旗も奉焼

●一木支隊に関するエピソード

一木支隊壊滅後上陸した川口支隊の歩哨は夜間、砂浜で足音を聞き、銃を構えると姿が見えた。「敵だ!」と叫ぼうしたが声が出なかった。よく見ると敵ではなく日本軍の軍旗護衛小隊であった。それは一木支隊の幽霊だということになったという。

支隊全滅時は一木大佐が軍旗を抱え込み死んだと言われている。

一木大佐に関する資料は少ないんで、ガタルカナル戦その後も交えながらお話ししていきたいと思います。

●ガタルカナル島の戦い

1.前夜

米豪遮断作戦の一環として海軍が三千人ほどの飛行場設営隊をガタルカナル島(以下、ガ島)に上陸させていた。飛行場を作った頃、突如米軍が上陸してきた。その一報を陸軍に伝えた際、なんと大本営陸軍部作戦部長の服部卓四郎大佐はこう述べている。

「ガ島なんて島に海軍は飛行場を作っていたのか?」

つまり陸軍は知らなかったのである。信じられない事態である。

アメリカはマリアナ沖海戦の際、陸軍機も動員して戦った。日本軍が相手にした米軍機の半数は陸軍機だったという。

陸海共同で作戦を進めてくるアメリカとは正反対である。アメリカも開戦前は陸海の仲はそれほどよくなっかったが、共通の敵である『大日本帝國』が見つかるやいなや、お互い協力体制に入ったという。

一方で日本は開戦前は陸海のあいだで戦争に成りそうなことも在ったという。開戦初期は陸海の協力体制のもとに東南アジアを制圧したが、それが終わると陸海はバラバラで戦争を進めていった。

2.一木支隊上陸と壊滅、川口支隊の激戦

海軍の要請でミッドウェー島上陸のために編成された一木支隊はガ島に送り込まれた。

当時、東京の大本営(海軍部)は米海兵一個師団(1万5千)が上陸したと正確に予測していたが、結局はこの意見は反映されず、「敵は2千」と見積もり、9百の一木支隊を上陸させた。

しかし実際は1万7千の米軍がおり、一木支隊は為すすべもなく全滅した。

その後、川口清健少将率いる部隊が上陸したが、上陸寸前に部隊は潮の流れなどの影響でバラバラになり上陸。川口支隊は兵力を結集できないまま、米軍と死闘を演じる運命となる。部隊の一部がアメリカ軍陣地の第一線を突破し、さらにごく一部の部隊が第二線の陣地も占領した。戦場は敵味方入り乱れて混乱状態となり、飛行場すぐ近くの米軍海兵師団司令部の宿営地まで迫った部隊もあったが、アメリカ軍の猛砲撃により攻撃は頓挫し、撃退された。アメリカ軍はこれを「9月の危機」と呼び、この攻撃が唯一の奪回の機会だったとしている。

3.逐次導入 ガ島から餓島へ

次は第二師団、第三十八師団を逐次投入し、日本軍は壊滅する。

その後ガ島は飢餓の島とかし、1943年2月1日からケ号作戦が行われるまでに、ガ島では5千が戦死、1万5千が戦病死又は餓死した。

評価:★★★★☆

コメント:無念の軍人です。

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