日本軍人評価~武藤章 編~

本日は武藤章を紹介します。

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開戦当時の軍務局長であり、A級戦犯として処刑された陸軍軍人である。

(最終階級は中将。中将で絞首刑に処せられたのは彼のみである。)

参謀軍人として、幾多の作戦に絡んだ。対中国強硬派として廬溝橋拡大派の姿勢を取った。その後、中支方面軍参謀副長になり南京攻略を指導。

《語録》

①二度と生きて会える日はあるまい。東条は満身創痍でたおれるだろうが、しかし最後にこの戦争が敗勢濃くなったとき、収拾をするのは結局陸軍だろうと思う。それが運命だ

②人々は私の転任について色々下馬評したが、私にはそんなことはどうでもよいのだった。軍務局長の不愉快さはやってみねばわからぬことで、これを解放されたのだから嬉しいにきまっている

個人的にあまり興味がない人です(おいおい)。

処刑前に東條に「巻き添えにして済まなかった。君まで死刑になると思わなかった…」と言われたらしい。彼も又、田中隆吉の証言の犠牲者だった。

評価:★★★☆☆

コメント:処刑されたのは驚きです。せめて禁固10年でしょ…

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日本軍人評価〜山本五十六 編〜

Buyamamoto (写真こっちから見て右から2番目)

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でました56!じゃなくて いそろく です。真珠湾攻撃の立役者であり、防弾装甲のない一式陸攻(Betty)の犠牲者。

なんで56(五十六)なの?それは、父が五十六が産まれたとき56歳だったからです。

えっ?嘘つくなって?本当ですよ!それにしてもなんだか命名意欲のない父だなぁ~。

新潟県の長岡生まれ。名字は1915年(位だったような…)まで高野だったんですよ。たしか山本家(長岡藩家老)に養子に行ったからだったと記憶してます。日露戦争では巡洋艦に乗って従軍(当時少尉)。左手中指と人差し指を失ってます(なんかに挟んだんだっけ?)。

1919年から1921年までハーバード大学に留学。

日独伊三国同盟、日米開戦(最後まで交渉が和解へ向かうことを望んでいた。部下達には、『単冠湾を出ても、交渉が和解に向かったら直ちに引き返せ』といっていたという。これに対し南雲は『出しかけた小便は止まりません』といって山本を怒らせた。)、大和建造(航空機時代が訪れると考えていた)に反対。

しかし、ハルノートを渡され、首脳陣意見は開戦やむなしに至る。

そして、真珠湾攻撃を考えることとなる。彼はこの作戦に特別な気持ちがあった。なんとしてでも成功させてやると考えていた。

作戦自体、かなり奇抜な物だった(彼の賭博好きも関わってるかも知れない)。問題もたくさんあった。航続距離の短い空母がどうやってハワイまで…、ハワイまでアメリカ軍にみつからないでいけるのか?、魚雷攻撃するには、真珠湾が浅すぎる…など

しかしこれらは海軍関係者の努力によって解決された。

雀部利三郎少佐(海兵51期。紹介したいのですが写真がない…)が11月以降北緯40°以北を船が全く通らないことを発見。

草鹿参謀長が空母いっぱいにドラム缶を詰めて給油することを考えつく(危険きわまりないのだが…)。

水深安定装置の付いた魚雷の開発が攻撃に間に合う。

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山本は日本で待機していた。日本に続々と戦果報告され、参謀達が沸き立つ中、彼だけは静かに何か思っているようだったという。

一人の参謀が『南雲中将は三次攻撃をするでしょうか?』と山本に聞くと『南雲はやらんだろう』と答えたという。南雲はこの作戦に乗り気ではなかったからである(このことがこの戦争の行方を決めることになろうとは…)。

その後…

帝都がB25に空襲を受ける。日本上空は海軍が守る!と言ってきた海軍はメンツ丸つぶれ。彼はミッドウェー作戦を考える。日本海軍はこれに大敗。

ガタルカナルでメンツ丸つぶしにされた陸軍はソロモン諸島で大決戦を始める。海軍も同調し、陸海空の立体空間での決戦が始まる。

第一次ソロモン海戦   日本勝利                                  第二次ソロモン海戦   アメリカ戦略的勝利                                                            第三次ソロモン海戦   日本敗北       

これらの決戦により日本は戦力の大幅消耗を許してしまう。

山本は前線兵士の激励に向かうためラバウルへ。

彼は零戦の搭乗員達に零戦の防弾装甲のなさを聞く。それを司令部に報告すると行った翌日に…

              海軍甲事件 

一式陸攻2機、零戦6機

P38 16機(ヘンダーソン飛行場から(日本名 ルンガ飛行場。川口支隊が後一歩のところで奪えなかったガタルカナル島の飛行場)

彼の乗った飛行機は炎上。ブーゲンビル上空に散った(墜落した際投げ出されて死んだという説もあり)  

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←彼の乗っていた一式陸攻の左翼         

評価:★★★★☆

コメント:愚将だったと評価する人もいる。しかし彼の断固した意志そして航空時代の到来を予期した先見の明がなかったら真珠湾はあれほどの戦果を収めていなかっただろう。あまり精神論に偏ってなかったんじゃないかな?そういうエピソードは聞かないから。

名言(?)コーナー

『除隊したらモナコ行ってカジノ経営したいね』

『周囲に、面倒くさい事をやって貰って神様になったのだから、拝めば何か御利益があるだろうよ』(死語の東郷元帥に対し)

『男の修行』

あと、彼は逆立ちがうまかったらしい。       

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日本軍人評価~下村定 編~

本日は下村定(しもむら さだむ)をしょうかいします。

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(画像があったサイトが閉鎖しちゃったみたいで残念…軍人(中将、大将クラス)のイラストとか在ったんですが…)

かなりマイナーです(知る人ぞ知る みたいな感じ)…

日本最後の陸軍大臣です。(最後の海軍大臣は米内光政です。)

明治20年9月23日~昭和43年3月25日(交通事故死)
〔生い立ち〕
明治20年(1886年)9月23日に高知県に生まれる。
陸士20期で卒、陸大28期首席で卒。

1937年9月28日 参謀本部第1部長                                       1938年9月 東京湾要塞司令官
1939年3月 中将に昇進
1940年8月 砲工校長
1941年9月 陸大校長
1942年10月 第13軍司令官
1944年3月  西部軍司令官
1944年11月  北支方面軍司令官
1945年5月  大将に昇進
1945年8月  陸軍大臣兼教育総監
1959年  参議院議員
1968年 交通事故で死亡

第八十九帝国議会での最後の陸軍大臣 下村定大将の答弁
       昭和20年11月27日開会
児島襄 『史録 日本国憲法』 文春文庫版 161ページ  戦争責任追及の声

・・・衆議院本会議の冒頭質問に立った進歩党代議士斎藤隆夫は、次のように述べた。

「戦争責任の問題であるが、自分の意見では東条と近衛の両氏に責任があると思う。支那事変なければ、今次大戦はない。(今次)戦争の責任が東条大将にあれば、支那事変の責任は近衛公にある。無力な汪精衛を引き出してきた事実、三国同盟を結んだ事実、これらは米英への挑発といわねばならぬ。日米会談は何故出来なかったか。
東条大将は戦争犯罪人となっているが、近衛公は未だ宮中に関係している。これは国民の思想に悪影響を与える。これを放置するのは何故か」
拍手、そして怒号にも似た賛意表明のかけ声がわき起こった。斎藤代議士は、日本に軍国主義を横行させた陸軍の責任についても、質問した。黒い背広姿の陸相下村定が答弁に立ったが、下村陸相は壇上に両手をつき、深く頭を下げた。

「・・・・・軍の指導者が間違っていた。さらに許すべからざるは、軍の不当なる政治干渉である。この結果、国家を重大な結末に導いたのは、なんとも申し訳ない。陸軍の最後にあたり・・・全国民に衷心よりお詫び申し上げる」

どのような答弁をするかと静まりかえっていた議場は、一言を率直さとともにしぼりだし、一句を悔恨の苦渋とともにはきだし、壇上に身を伏せる下村陸相の姿にざわめいた。

「私は陸軍の最後にあたりまして、議会を通じてこの点につき、全国民諸君に衷心からお詫びを申し上げます。陸軍は解体を致します。過去の罪責に対しまして今後、事実をもってお詫び申し上げること、事実をもって罪をつぐなうことは出来ませぬ。まことに残念でありますが、どうか従来からの国民各位のご同情に訴えまして、この陸軍の過去における罪悪のために、純忠なる軍人の功績を抹消し去らないこと、ことに幾多戦没の英霊にたいして、深きご同情を賜らんことをこの際切にお願いいたします。」

          (↑知る人ぞ知るこの人の名言。)

議場には、わかった、もういいぞ、という声がひびいていたが下村陸相の言葉の終りは、たまりかねむせび泣きと拍手におおわれた。・・・

2日後の11月30日 内地復員を終えた陸海軍省が廃止、
 残務整理と外地からの復員業務のための復員省ができる。
 この日下村陸相は宮中に参内、復員が順調に進んでいることと、改めて敗戦のお詫びを奏上した。
 8月15日以来背広姿であられる天皇は、この日、久しぶりに大元帥服をお召しになった。

 『ほんとうにご苦労であった。』

と大元帥陛下は勅語を賜り、最後の儀式は終わった。
ただちに天皇は軍服を背広にお召し代えになった。

大日本帝国陸海軍は永遠に姿を消した。

「敗戦と言うな!終戦といえ!」と言う名言(?)も残している。
あまり知られていない人ではあるが、良識派の人であったと思われる。支那事変に関しては、拡大派だった。資料があまりないんでこの辺で…(いい加減?)

評価:★★★★☆

コメント:目立った活躍もなく、失敗もないこの人…。まあよく最後の陸軍大臣をあの混乱期に務めてくれたと思います。

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日本軍人評価 ~源田実 編~

0000001 panicさんのブログのコメント欄に大西中将と共に名前があったのを発見しました…(3月10日の書き込みだったのに、今頃になって初めてすみませんm(_ _)m   大西中将は写真が見あたらないんです…)

源田実(げんだみのる)は日本海軍の航空将校である。

日露開戦の年である1904年広島の農家で産まれる。パイロットに憧れ海軍に入隊、霞ヶ浦航空隊に入隊し訓練を積む。折しも、日本はその時空母に航空隊を乗っけることを決定、彼は赤城に乗り組む。

実(みのる じゃなくて じつ)は、日本は列強に先駆け航空有利の思想を持っていた。というより持たざるを得なかった。海軍軍縮条約で、仮想敵国であるアメリカとの主力艦保有数を5分の3にまで制限されたからである。この頃、国民の寄付による軍への飛行機の献納が盛んに行われ、源田は日本各地で行われた献納式のパイロットを勤めた。彼が率いる三機編隊による巴宙返り、編隊宙返りは各地で人気を博し、「源田サーカス」と愛称された。

真珠湾奇襲の時、南雲はこういった『私はここまで艦隊をひぱってきた、後は君たちの出番だ』と…。源田が実質的な司令官となっていたのだ。口の悪い水兵は南雲艦隊を、

源田艦隊』とよんでいた。

昭和19年末、源田は悪化する戦況に一矢報いるべく、自身の政治力を生かし他航空隊に比べ比較的練度の高い搭乗員を結集、そして新鋭の戦闘機「紫電改」の大部分を独占した戦闘機部隊を内地に編成し、自ら、その司令に就任した。愛媛県松山基地を根拠地としたこの第343海軍航空隊は、翌昭和20年の3月19日、来襲した米機動部隊の300機あまりの艦上機を迎え撃ち、このうち57機を撃墜、これに対し味方の空戦での損失は16機という戦果をあげて初陣を飾っている。『剣』と名づけられたこの部隊は、本土爆撃に飛来したB29にも多大な損害を与え、終戦に至るまでの防空戦で奮戦した。

零戦の開発者との会議(防弾装甲について)で『みんなの意見を聞いているとどうも情けない、大和魂で突貫せねばならん』などと精神論に偏った一面も見せた。

晩年に至る数年間は、自宅近辺を愛犬と散歩する姿がよく見かけられた。

評価:★★★☆☆

コメント:先見の明があったことがここまで評価を上げた理由。しかし所詮は日本軍人特有の精神論信奉者だったことに変わりない。あの会議の一言により多くのパイロットが死ぬ運命になったと言うことが彼に解っていたのだろうか…

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今日は何の日コーナー!!

第三弾目です。

今日3月25日は硫黄島で日本軍が玉砕した日…(南雲忠一の誕生日でもある、寺内正毅の誕生日でもある、平将門の命日でもある。)

硫黄島の戦いは後日説明します。

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日本軍人評価~東條英機 編~

本日は悪名高き東條英機について紹介してきます。

開戦時の首相になってたから、戦後軍国主義の代表人物として処刑されてしまった。

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父は、陸軍中将の東條英教。父は優秀な軍人で、回りからは陸軍大臣にまでなれるだろうと言われていたが、南部藩出身(明治維新期の朝敵)出身だったので、当時陸軍の実権を握っていた山県有朋(長州藩)や寺内正毅(長州藩)に昇進を阻まれ中将止まり。(それが原因で寺内ジュニア(寺内寿一)は東條英機に嫌われ南方へポイ。加賀百万石の前田家の殿様の子孫 前田利為も英機が嫌いだったからポイされてボルネオで事故死しちゃったよ…それも東條はわざわざこれを戦死ではなく戦傷病死扱いにして遺族の年金を減額したといわれている。こわいね人間関係って言うのは…)

(彼は写真豊富なんで、今回はたくさん貼っていきます。めんどくさいんで略歴は省略(要望があればやります。))

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(学徒出陣壮行会での東條。隣は海軍の嶋田大将か?)

東條の腹心の部下としては「三奸四愚」と呼ばれた三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二、四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄やインパール作戦を直訴し白骨街道を築いた牟田口廉也、陸軍大臣時代に仏印進駐の責任問題で一度は左遷したが、わずか半年後に人事局長に栄転し陸軍次官も兼任した富永恭次がいる。富永はフィリピンで特攻指令をだし、自らも特攻すると訓示しながらも…

「胃潰瘍」の診断書をもって護衛戦闘機付きで台湾に逃亡

しかし、これらの部下を東條は処分しなかった。なんてやからでしょうか…(え?どっちが?どっちもだよ…。)

意外な一面としては、日米開戦の日に 勝ち目のない戦争をこの手で始めてしまったことと、天皇の期待に応えられなかったことから泣いたということである(一国の首相が、戦争やる前から負けると思うなよ なんて思いますが…)。

政治家としての評価は低い東條も軍事官僚としては抜群であったという。強姦、略奪などの軍規、風紀に厳しく違反した兵士には容赦なく軍法会議にかけたという。戦場の司令官としてもチャハル・スイエン方面における東條兵団の成功はめざましいもので彼が政治に引き込まれなかったら、名将として名を残しただろうという意見もあったりと…なかなかの面もある。

終戦間もなく自決を試みるも失敗。

戦後、裁判でこんな事を言っている。

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(大川周明にたたかれる。大川はもうこのとき頭逝っちゃってた…)

《英米諸国人に告げる》

今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。この深刻な事実は私も固より、これを認めるにやぶさかではない。しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく時間はない。しかし諸君がもし、虚心坦懐で公平な眼差しをもって最近の歴史的推移を観察するなら、その思い半ばに過ぎるものがあるのではないだろうか。我れ等はただ微力であったために正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆するだけである。いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは数十万人を一挙に殺戮するようなことを敢えて行ったことに対して、あまりにも暴虐非道であると言わなければならない。

もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、世界はさらに第三第四第五といった世界戦争を引き起こし、人類を絶滅に至らしめることなければ止むことがなくなるであろう。

諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。

《日本同胞国民諸君》

今はただ、承詔必謹する〔伴注:終戦の詔を何があっても大切に受け止める〕だけである。私も何も言う言葉がない。

ただ、大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず受けてたっただけのことである。この経緯は昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔に特筆大書されているとおりであり、太陽の輝きのように明白である。ゆえにもし、世界の世論が、戦争責任者を追及しようとするならば、その責任者は我が国にいるのではなく彼の国にいるということは、彼の国の人間の中にもそのように明言する者がいるとおりである。不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、正理公議は厳として我が国あるということは動かすことのできないことである。

力の強弱を、正邪善悪の基準にしては絶対にいけない。人が多ければ天に勝ち、天が定まれば人を破るということは、天道の法則である。諸君にあっては、大国民であるという誇りを持ち、天が定まる日を待ちつづけていただきたい。日本は神国である。永久不滅の国家である。皇祖皇宗の神霊は畏れ多くも我々を照らし出して見ておられるのである。

諸君、願わくば、自暴自棄となることなく、喪神落胆することなく、皇国の命運を確信し、精進努力することによってこの一大困難を克服し、もって天日復明の時が来ることを待たれんことを。

《日本青年諸君に告げる。》 《日本青年諸君各位》

我が日本は神国である。この国の最後の望みはただ諸君一人一人の頭上にある。私は諸君が隠忍自重し、どのような努力をも怠らずに気を養い、胆を練り、現在の状況に対処することを祈ってやまない。

現在、皇国は不幸にして悲嘆の底に陥っている。しかしこれは力の多少や強弱の問題であって、正義公道は始終一貫して我が国にあるということは少しも疑いを入れない。

また、幾百万の同胞がこの戦争のために国家に殉じたが、彼らの英魂毅魄〔伴注:美しく強い魂魄〕は、必ず永遠にこの国家の鎮護となることであろう。殉国の烈士は、決して犬死したものではない。諸君、ねがわくば大和民族たる自信と誇りをしっかり持ち、日本三千年来の国史の導きに従い、また忠勇義烈なる先輩の遺旨を追い、もって皇運をいつまでも扶翼せんことを。これこそがまことに私の最後の願いである。思うに、今後は、強者に拝跪し、世間におもねり、おかしな理屈や邪説におもねり、雷同する者どもが少なからず発生するであろう。しかし諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。

真骨頂とは何か。忠君愛国の日本精神。これだけである。

そして今の天皇陛下の誕生日の日に彼の床は落ちた…

ちなみに国分佐智子という女優は彼の子孫らしいです。国会の撮影を許可したのは彼(今では普通になってるね)。

評価:★★★☆☆

コメント:もう少し頑張って欲しかった。今の彼の不当な評価は少し行き過ぎだとおもう。

まったく自己反省のない男だからね、東條という男は。    by岡田啓介(226で女々しく生き残った海軍大臣(当時は首相))

〈余分なコーナー〉

中国の海南島にこんなのがある。

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これは完全に冒涜である。かなりの怒りを感じたと同時に中国人には“仲良くなる“ことが苦手(というより 出来ない)な民族だと言うことを感じました。いくら何でもひどすぎます。

(東條語録)

①治療を受けるあいだつき添ってくれたアメリカのMPは立派だった。社会の動きにもそれなりの見識をもっていた。教育程度が高いからだろうが、国民に知らせ、自覚をもたせ、これを掌握すれば力となる。アメリカのデモクラシーはこの点にあったのだ。

②幼年学校時代に、いちど習ったところを徹底的に暗記してみた。すると成績はあがった。努力とはそういうものだと思った。

③誤解してはいかん。乙案は開戦の口実ではない。この案でなんとか妥結をはかりたいと神かけて祈っているのだ。それがわからんのか。

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日本軍軍人評価 〜中島正 編〜

海兵58期の中島正(なかじま ただし)を紹介します。

9362 (なかなかの二枚目?整った顔ですね。WBC日本代表の小笠原似?)

実は源田実あたりがくるかなと思ってたんですが…予想大はずれ。海空関係ということしかあってない…。本題に入りましょう。58期なので、以前 辻政信のコーナーで紹介(というか少しでてきただけ)したO宮中佐(奥宮正武 氏)と同期です。 誕生日は6月25日。僕と近いんでびっくりしました。(なことどうでもいい…)

彼は福岡県三池中学板時代から展覧会に絵を何度も出品し、最初は画家志望であった。従兄弟に勧められて海軍兵学校に進んだが、当時の有名な禅僧釈宗演に心酔し、その著書を読みふけって英語がおろそかになり、危うく落第するところだったらしい。

卒業後の東洋航海では船酔いして寝込み、作業ができず、船乗りがこれではと、海軍をやめようと思った。が、帰国後の術科講習で「航空最適、甲の上」という思わぬ適性検査の結果(視力は2.0。うらやましい限りです…)を知らされ、踏みとどまる

無類の子ども好きで知られ、赴任先(台南航空隊なのでラバウルあたりでしょうか、フィリピンでしょうか?)で子ども達の相撲相手をしていたという。

彼は第一次ソロモン海戦の時に武功を挙げる。わずか18機の零戦21型で、米機49機(内戦闘機43機)を撃墜。被撃墜は2機にとどまった。その戦闘には坂井三郎氏、西沢広義氏と言った百戦錬磨の撃墜王が参加した。(なんだか良くわからないが、戦闘機乗りには敵機のにおいがするという…)

しかし、彼は大東亜戦争中は敵機を一機も撃墜していない。それは彼の、『指揮官は部下の列機に存分に力を出させるのが仕事』という理念に基づいている。これは正しい。陸軍の指揮官も勇猛すぎるのは良くない。指揮官が敵陣に突っ込むと、指揮系統が乱れるうえ、指揮官戦死の確率が上がる→戦死すると味方の士気が下がる(むかしから、将のいない軍ほど弱いものはないと言う)。だから有能な指揮官は自分の身に危険が迫らない限り闘わない。闘うのは兵士である。

そのご特攻隊の指揮官を務めるがそこでは部下に嫌われたらしい。『中島は特攻に行けるような軍人じゃない』とまで言われたそうだ。どうやら特攻を送り込むことに何も感じてなかったのではないのだろうか。それは、他の軍人が僧侶になったりしていたり、著書の印税を遺族に廻したりしていたが彼はやっていない。(と言っても少数派。ああ、あのM口中将などの、狂ったような上級軍人は論外ですよ)。

彼は国に命を捧げた軍人として、死ぬことは当たり前だと思っていたのだろう。指揮官のあり方の考え方など、そういう意味で本当の軍人だったのかも知れない。

評価:★★★★☆

コメント:なんとなく最後の言い回しが良くわかりませんでした。言いたいことが大体つかめてくれればいいんですが…。すこし冷酷な人として書きすぎた気がしますが、初めの方を思い出してください。

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日本軍人評価~永田鐵山 編~

今日は永田鉄山を紹介します。

ながたてつやま…じゃないっすよ てつざん です。鐵山が正式(旧字体)

62 来ましたよ、ようやくまともな人が…

『永田の前に永田なし、永田の後に永田なし』や『将来の陸軍大臣』とまで言われた逸材…

永田は一局長ではありながら、その政治的器量と存在感は、昭和陸軍史上、宇垣一成以来といえる。ただ、永田には宇垣のような巧みな権謀術策はない。徹底した真正面攻撃型であり、「合理適正居士」の渾名が示す通り、きわめて現実主義で、割り切りは早く強引である…。現在の中学や高校でもそうだが、たまに「超」の字のつくほど凄い秀才がいる。そんな生徒に限って、大して勉強しなくてもよく出来る。友達つき合いもいい。畏敬もされるが、嫉まれもする。永田鉄山は、その手の超秀才だったようだ。 by升本喜年

秀才永田鉄山の名は、その特有な名前と共に、佐官時代からすでに陸軍部内に売れていた。将来の陸軍大臣、これは衆目のひとしく認めたところである。連隊長ともなれば馘首を恐れて、消極或は事なかれ主義に陥るものがあるが、自信のあるかれはあくまで積極的であった。 by新井勲 (元陸軍中尉)

とまあこんな感じの評価を持つ男である。

東條、小畑と同志であった。有名なのはバーデンバーデンの密約で彼らと日本軍政の改革を誓ったという。

経歴を書いていきますと、1898年(明治31年)9月に東京陸軍幼年学校に入校。

1903年(明治36年)5月に士官候補生となり兵科は歩兵に指定され、歩兵第三連隊付となる。

1904年(明治37年)10月24日に陸軍士官学校を卒業し、少尉に任ぜられる。

1908(明治41年)に陸軍大学23期入校する。

1910年(明治43年)11月に陸軍大学校を首席で卒業し恩賜の軍刀(※)を賜る。

(※) 陸軍大学海軍大学校の最優等卒業生に天皇より授与される軍のこと。

(ご指摘により訂正致しました。陸士は銀時計が正しいです。済みません。)

1920年(大正9年)に駐スイス駐在武官となる。その後、麻布歩兵第3連隊長となる。 1930年(昭和5年)に陸軍省軍事課長となる。

1932年(昭和7年)に陸軍少将に任ぜられる。 

1934年(昭和9年)に陸軍省軍務局長となる。 

1935年(昭和10年)7月15日に真崎甚三郎教育総監が更迭される。同年7月19日に有末精三中佐の紹介により歩兵第41連隊付の相沢中佐と面会し辞職を迫られる。

同年8月12日に相沢三郎中佐に軍務局長室で斬殺される。

世に言う相沢事件である。理由は真崎甚三郎教育総監を罷免にしたからであると言われている。真崎大将は皇道派で、相沢もまた皇道派だったからである。陸軍内部では林陸相を中心として皇道派を陸軍内部から一掃する動きがあった。

しかし、当時の陸軍人事局長は今井清で永田は関知していない

これがきっかけになり226事件がおき日本は軍国主義へ進むのである(相沢は刑死)。

永田の意志は東條が受け継いでいくこととなる。

コメント:惜しい人材だったすよ…日本に永田が30人くらいいたら…

評価:★★★★★

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今日は何の日コーナー!!

61年前の今日 3月10日

1945年3月10日帝都 東京上空に325機のB29が来襲…

午前0時7分深川地区に初弾が投下…東京の下町は阿鼻叫喚の地獄と化した…

米軍は、低空で侵入し、約38万発、1,700tにも及ぶ爆弾を投下した…

本土防空を担当していた航空隊の活躍により、米軍も50機近くの損害を出したが、日本側の損害は甚大だった…

10万人が犠牲になり、焼失家屋は約27万8千戸に及び、東京の3分の1以上の面積(40平方キロメートル)が焼失した…

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音楽が哀愁を誘います…

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