日本軍人評価 ~今村均 編~

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日本軍人評価~一木清直 編~

Photo_14 一木清直(いちき きよなお)大佐(戦死後 少将)を紹介します。

ガタルカナル島の先遣隊 一木支隊の指揮官で有名な彼ですが、廬溝橋事件時、少佐で牟田口に攻撃命令を受けたことでも有名です。

彼も「断然攻撃したい」と述べていたように、中国軍への攻撃には積極的だったようです。

もともと、一木支隊はガ島作戦のために編成されたのではなく、ミッドウェー島占領任務を目的として編成された。

しかし、ミッドウェー海戦の敗北により支隊はグアムへ一時駐屯。

その後、ガ島がアメリカ軍により奪われたため、奪還のため上陸。

916人の小部隊は強大な米軍(米軍は始めに島にいた飛行場設営隊の戦力を過大評価していたために、大軍を上陸させていた。)の前に壊滅。彼は戦死し、軍旗も奉焼

●一木支隊に関するエピソード

一木支隊壊滅後上陸した川口支隊の歩哨は夜間、砂浜で足音を聞き、銃を構えると姿が見えた。「敵だ!」と叫ぼうしたが声が出なかった。よく見ると敵ではなく日本軍の軍旗護衛小隊であった。それは一木支隊の幽霊だということになったという。

支隊全滅時は一木大佐が軍旗を抱え込み死んだと言われている。

一木大佐に関する資料は少ないんで、ガタルカナル戦その後も交えながらお話ししていきたいと思います。

●ガタルカナル島の戦い

1.前夜

米豪遮断作戦の一環として海軍が三千人ほどの飛行場設営隊をガタルカナル島(以下、ガ島)に上陸させていた。飛行場を作った頃、突如米軍が上陸してきた。その一報を陸軍に伝えた際、なんと大本営陸軍部作戦部長の服部卓四郎大佐はこう述べている。

「ガ島なんて島に海軍は飛行場を作っていたのか?」

つまり陸軍は知らなかったのである。信じられない事態である。

アメリカはマリアナ沖海戦の際、陸軍機も動員して戦った。日本軍が相手にした米軍機の半数は陸軍機だったという。

陸海共同で作戦を進めてくるアメリカとは正反対である。アメリカも開戦前は陸海の仲はそれほどよくなっかったが、共通の敵である『大日本帝國』が見つかるやいなや、お互い協力体制に入ったという。

一方で日本は開戦前は陸海のあいだで戦争に成りそうなことも在ったという。開戦初期は陸海の協力体制のもとに東南アジアを制圧したが、それが終わると陸海はバラバラで戦争を進めていった。

2.一木支隊上陸と壊滅、川口支隊の激戦

海軍の要請でミッドウェー島上陸のために編成された一木支隊はガ島に送り込まれた。

当時、東京の大本営(海軍部)は米海兵一個師団(1万5千)が上陸したと正確に予測していたが、結局はこの意見は反映されず、「敵は2千」と見積もり、9百の一木支隊を上陸させた。

しかし実際は1万7千の米軍がおり、一木支隊は為すすべもなく全滅した。

その後、川口清健少将率いる部隊が上陸したが、上陸寸前に部隊は潮の流れなどの影響でバラバラになり上陸。川口支隊は兵力を結集できないまま、米軍と死闘を演じる運命となる。部隊の一部がアメリカ軍陣地の第一線を突破し、さらにごく一部の部隊が第二線の陣地も占領した。戦場は敵味方入り乱れて混乱状態となり、飛行場すぐ近くの米軍海兵師団司令部の宿営地まで迫った部隊もあったが、アメリカ軍の猛砲撃により攻撃は頓挫し、撃退された。アメリカ軍はこれを「9月の危機」と呼び、この攻撃が唯一の奪回の機会だったとしている。

3.逐次導入 ガ島から餓島へ

次は第二師団、第三十八師団を逐次投入し、日本軍は壊滅する。

その後ガ島は飢餓の島とかし、1943年2月1日からケ号作戦が行われるまでに、ガ島では5千が戦死、1万5千が戦病死又は餓死した。

評価:★★★★☆

コメント:無念の軍人です。

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日本軍人評価 ~長 勇 編~

本日はナガ ユウ を紹介します。

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初めて見た時は驚きましたね~。長勇・・・誰?って思いましたよ。

チョウユウ?ナガユウ?なんて読むんですか・・。

改めて、長勇 (チョウ イサム←なんかさっきからカタカナにこだわってますが、第一印象がカタカナ!みたいな感じだったんで・・・)を紹介します。

実を言うとよく知らない人です・・・・・・・・

橋本欣五郎らと共に少佐時に桜会を結成。三月事件、十月事件を起こし、軍部暴走のきっかけをつくった人。

最後は沖縄で牛島中将と共に自決。

彼の逸話

逃げまどう南京の一般人に対し、機関銃の発砲を一兵士に命じた。兵士は躊躇した。いくら中国兵が混ざっていたとしても、さすがに一般人は撃てない。長は何をしたか。なんと「人はこう殺すのだ!」とその兵士を軍刀で斬殺したのだ!!

恐れを成したほかの兵士が機関銃を発砲し、虐殺になった。

コメント:逸話は本当かどうか解りませんが、彼の性格を象徴するような事であるのは事実でしょう。第一、投降禁止を島民、残存兵に命じていたくせに自分は自決ってどういう事だよ。

評価:★☆☆☆☆

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日本軍人評価 ~栗林忠道 編~

本日は日本が誇る名将である栗林忠道を紹介します。

暑い暑い火山の島で米軍に多大な出血を強いた名将          

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1890年の七夕に長野県に生まれた彼は騎兵隊に入隊した。文才にあふれていたため、『愛馬行進曲』の選定などに関わった。

右の写真は近衛師団長の時のものである。直後に小笠原兵団の兵団長になり、硫黄島に赴任。

当初は要塞のある父島に司令部を置くことになっていたが、情勢を調査した栗林中将と大本営は米軍が硫黄島を攻略することを見抜き、無防備に等しい硫黄島に直ちに司令部を移し、即日島全体の洞窟を利用した地下陣地の構築に着手した。

↓その時現場指揮をしている彼の写真Photo_5

計画によると坑道は地下で全島を結ぶことになっており、最も深いところで12mから15m、また工事の遅れを無くすため作業中は一切の敬礼をやめるように命令するなど陣地構築作業は徹底していた。

しかし、地下の猛烈な湿度や温度、そして酸化硫黄ガスにより兵士は短時間しか作業に従事できなかった

この中、兵達はよく頑張った。

加えて米軍の潜水艦による妨害によって物資が思うように届かないなどの理由で計画は遅れ、結局坑道は全長28kmの計画のうち18km程しか完成せず、また摺鉢山への坑道も僅かなところで未完成のままで米軍を迎え撃つことになった。

硫黄島の激闘についてはここではふれませんが、又後々ふれたいと思います。

今冬12月頃に映画『硫黄島からの手紙』(英名:RedSun,BlackSand。渡辺謙主演だったかな?)が公開されるそうです。向こう(アメリカ)側の映画ですが、見てみるのも良いと思います。

コメント:普段は温厚で、文才に溢れ、荒々しさを感じさせない軍人だったが、アメリカ海兵隊に多大な出血を強い、アメリカ軍上層部からも"日本一の名将"と称えられるほどの秘めた力を持っていたのが彼だった。

評価:★★★★★      

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日本軍人評価 ~山下 奉文 編~

久しぶりの軍人評価の復活です。長い間書くのが面倒で・・(一回かなり書いたものを保存し忘れで消えて以来やるきがなくなりまして)

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本日はマレーの虎 山下 奉文  (やました ともゆき)を紹介します。

日清戦争講和の年に産まれた彼。

226の時には決起将校に理解を示す。彼を一躍有名にしたのはシンガポール攻略戦。

彼は第二十五軍を指揮しマレー作戦を担当。難攻不落を誇ったイギリスのシンガポール要塞を約2週間で陥落させ、英陸軍史上最大の屈辱である8万人の投降者を出した。

2月15日午後5時15分を少しすぎたころフォード自動車工場において、英軍は降伏した。(この時山下がパーシヴァル英司令官に「イエスかノーか」と迫ったが、降伏の意思の有無を訊く為であって恫喝の類ではなかったとされている。山下も「敗軍の将に恫喝などできるか!」と言っている。)

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こうして日本軍のシンガポール占領が開始された。

そのご彼は満州に赴任。終戦間近には第14軍司令官としてフィリピンに赴任。

台湾沖航空戦の大戦果(実際には誤り)の元に計画立案されたレイテ作戦を指揮することになったが、全く減らない飛来する米機から彼は台湾沖の誤報を指摘。作戦に反対するが、南方軍総司令官の寺内は命令を変えなかった。

優秀な部下である堀栄三(マッカーサー参謀と言われた)などの助けもありそれが誤報であることは解っていたはずなのに・・・・

レイテ決戦は失敗に終わり、次作戦であるルソン決戦は小野田少尉の「敵艦見ゆ」の報で部隊配置を迅速に行ったが、圧倒的な米軍の前ではなすすべなく、終戦後の9月に降伏した。

【降伏後】

降伏時は捕虜として扱われたが、すぐに戦犯としてフィリピン・マニラにて軍事裁判にかけられ、マニラでの住民虐殺等の責任を問われ死刑判決。米陸軍の法務将校からなる山下の弁護団は不服として、フィリピン最高裁、アメリカ連邦最高裁判所に死刑執行の差止めと人身保護令の発出を求める請願を出した。弁護団の努力もむなしく、米最高裁は6対2の投票で却下し絞首刑に処せられた(絞首刑よりも銃殺刑のほうが軍人にとっては名誉がある)。軍服の着用も許されず囚人服のままで処刑は行われた。この裁判を取材していた連合国側の12人の新聞記者は判決前のアンケートで全員が無罪と回答している上に弁護人も「我々は復讐的であり偽善的であった。」と述べている。

マニラ大虐殺については、フィリピン防衛戦の時、マニラ市民への被害を避けるため、彼はマニラを無防備都市として、司令部をバギオに移していたが、海軍部隊がこの命令に従わずマニラに居残ってマニラ防衛戦を行い、結果マニラは廃墟となり、将兵2万は玉砕。また米軍の無差別爆撃で多くのマニラ市民が死亡した。マッカーサーはこれらを全て山下将軍にかぶせ、また末端の日本兵の残虐行為までもかれに押しつけた。つまり、マニラ大虐殺については、彼の責任ではなく、米国の官選弁護人や連合国記者たちの圧倒的無罪予想に反した異例なものであった。

山下財宝をまだ探しているフィリピンのかたがいるそうです・・・ご苦労様です。

評価:★★★★☆

コメント:かなりの名将であり、部下を信頼し、その能力を引き出し・・・名将であるほど連合軍側に嫌われ処刑されるんです。フィリピンにもう10万兵がいれば守れたかも知れません。

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日本軍人評価 ~畑 俊六 編~

01 本日は、はた しゅんろく を紹介します。 

1879年7月26日~1962年5月10日。兄は畑英太郎陸軍大将で関東軍司令官。

東京府立一中を卒、1900年に陸軍士官学校を卒業。中尉の時日露戦争に従軍し負傷。1910年に陸軍大学校を卒業。ドイツ駐在武官・参謀本部作戦班長・参謀本部作戦課長兼軍令部参謀・航空本部長など作戦関係の要職を歴任し、1936年に台湾軍司令官。翌1937年に陸軍大将に昇任し、軍事参議官・陸軍教育総監を兼任する。

1937年に南京大虐殺が発生した際、責任者の松井大将の更迭を進言し、翌1938年には松井の代わりに中支那派遣軍司令官となり、武漢作戦を指揮。1939年8月に成立した阿部信行内閣で陸軍大臣に就任し、その次の米内光政内閣でも留任した。しかし、天皇から内閣への協力を厳命されていたにも関わらず、単独辞職して米内内閣の瓦解の原因を作った。その後、支那派遣軍司令官となり、1944年に元帥に列せられた。

決号作戦(本土決戦の作戦)では第二総軍(司令部:広島。第15、16方面軍と第6航空軍を主力とする、西日本の防衛を担う部隊。)の司令官に任命される。

極東国際軍事裁判でA級戦犯として起訴され終身刑。1954年に仮釈放を受け、その後偕行社会長を務めた。

評価:★★☆☆☆

コメント:天皇の命令に逆らうとは・・・軍人ですか?なぜか、このごろ興味ない人を取り上げすぎです。

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日本軍軍人評価〜石原莞爾 編〜

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なんだか画数多いし、難しい面倒くさい人です。陸士21期。山形県鶴岡に生まれ、仙台陸幼で学ぶ。しかしその時数々の逸話を残す(後ほどまた話します) 1920年に国柱会にはいり、日蓮宗教徒になる。1931年関東軍作戦主任参謀として満州事変を起こした。彼は対ソ戦を主張し、満州をその防衛戦としようとしたのである。しかし対中戦に反対・不拡大を唱えたため東條と対立(以後ずっと嫌い嫌われるの関係) 世界最終戦争論を唱えて東亜連盟を指導したが東條が東亜連盟を弾圧し東亜連盟同士会に名前を変えた。 1941年には東條に第一六師団長に左遷され予備役にまで回されてしまいました。

戦後は東條と対立していたので刑は食らわなかったがそう長くは生きなかった

1889.1.18〜1949.8.15
評価:★★☆☆☆

コメント:熱狂的なファンもいますが個人的にあまり好きではありません(また?前は興味ないだったかな?)。 まあカリスマ性はあったみたいです。最終階級は中将です。

仙台陸軍地方幼年学校3年のときというから、今でいう中3のときの石原のクラスの図画の教官というのが、写生に力を入れる人で、毎週2枚という課題を生徒たちの課した。題材は自由。で、石原少年が「十月一日」に描いた作品の傍らのコメントがこれ。用紙いっぱいに描かれた石原の「我ガ宝」を見て教官は怒った。この「問題」を職員会議にかけて処分を要求した。このとき、厳しい処分が行われていたら、その後の日本の歴史はよほど違ったものになっていたはずだが、「大胆でよろしい」が職員会議の出した結論だった。図画の教官はこれを不服として辞職したという。

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日本軍人評価~武藤章 編~

本日は武藤章を紹介します。

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開戦当時の軍務局長であり、A級戦犯として処刑された陸軍軍人である。

(最終階級は中将。中将で絞首刑に処せられたのは彼のみである。)

参謀軍人として、幾多の作戦に絡んだ。対中国強硬派として廬溝橋拡大派の姿勢を取った。その後、中支方面軍参謀副長になり南京攻略を指導。

《語録》

①二度と生きて会える日はあるまい。東条は満身創痍でたおれるだろうが、しかし最後にこの戦争が敗勢濃くなったとき、収拾をするのは結局陸軍だろうと思う。それが運命だ

②人々は私の転任について色々下馬評したが、私にはそんなことはどうでもよいのだった。軍務局長の不愉快さはやってみねばわからぬことで、これを解放されたのだから嬉しいにきまっている

個人的にあまり興味がない人です(おいおい)。

処刑前に東條に「巻き添えにして済まなかった。君まで死刑になると思わなかった…」と言われたらしい。彼も又、田中隆吉の証言の犠牲者だった。

評価:★★★☆☆

コメント:処刑されたのは驚きです。せめて禁固10年でしょ…

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日本軍人評価〜山本五十六 編〜

Buyamamoto (写真こっちから見て右から2番目)

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でました56!じゃなくて いそろく です。真珠湾攻撃の立役者であり、防弾装甲のない一式陸攻(Betty)の犠牲者。

なんで56(五十六)なの?それは、父が五十六が産まれたとき56歳だったからです。

えっ?嘘つくなって?本当ですよ!それにしてもなんだか命名意欲のない父だなぁ~。

新潟県の長岡生まれ。名字は1915年(位だったような…)まで高野だったんですよ。たしか山本家(長岡藩家老)に養子に行ったからだったと記憶してます。日露戦争では巡洋艦に乗って従軍(当時少尉)。左手中指と人差し指を失ってます(なんかに挟んだんだっけ?)。

1919年から1921年までハーバード大学に留学。

日独伊三国同盟、日米開戦(最後まで交渉が和解へ向かうことを望んでいた。部下達には、『単冠湾を出ても、交渉が和解に向かったら直ちに引き返せ』といっていたという。これに対し南雲は『出しかけた小便は止まりません』といって山本を怒らせた。)、大和建造(航空機時代が訪れると考えていた)に反対。

しかし、ハルノートを渡され、首脳陣意見は開戦やむなしに至る。

そして、真珠湾攻撃を考えることとなる。彼はこの作戦に特別な気持ちがあった。なんとしてでも成功させてやると考えていた。

作戦自体、かなり奇抜な物だった(彼の賭博好きも関わってるかも知れない)。問題もたくさんあった。航続距離の短い空母がどうやってハワイまで…、ハワイまでアメリカ軍にみつからないでいけるのか?、魚雷攻撃するには、真珠湾が浅すぎる…など

しかしこれらは海軍関係者の努力によって解決された。

雀部利三郎少佐(海兵51期。紹介したいのですが写真がない…)が11月以降北緯40°以北を船が全く通らないことを発見。

草鹿参謀長が空母いっぱいにドラム缶を詰めて給油することを考えつく(危険きわまりないのだが…)。

水深安定装置の付いた魚雷の開発が攻撃に間に合う。

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山本は日本で待機していた。日本に続々と戦果報告され、参謀達が沸き立つ中、彼だけは静かに何か思っているようだったという。

一人の参謀が『南雲中将は三次攻撃をするでしょうか?』と山本に聞くと『南雲はやらんだろう』と答えたという。南雲はこの作戦に乗り気ではなかったからである(このことがこの戦争の行方を決めることになろうとは…)。

その後…

帝都がB25に空襲を受ける。日本上空は海軍が守る!と言ってきた海軍はメンツ丸つぶれ。彼はミッドウェー作戦を考える。日本海軍はこれに大敗。

ガタルカナルでメンツ丸つぶしにされた陸軍はソロモン諸島で大決戦を始める。海軍も同調し、陸海空の立体空間での決戦が始まる。

第一次ソロモン海戦   日本勝利                                  第二次ソロモン海戦   アメリカ戦略的勝利                                                            第三次ソロモン海戦   日本敗北       

これらの決戦により日本は戦力の大幅消耗を許してしまう。

山本は前線兵士の激励に向かうためラバウルへ。

彼は零戦の搭乗員達に零戦の防弾装甲のなさを聞く。それを司令部に報告すると行った翌日に…

              海軍甲事件 

一式陸攻2機、零戦6機

P38 16機(ヘンダーソン飛行場から(日本名 ルンガ飛行場。川口支隊が後一歩のところで奪えなかったガタルカナル島の飛行場)

彼の乗った飛行機は炎上。ブーゲンビル上空に散った(墜落した際投げ出されて死んだという説もあり)  

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←彼の乗っていた一式陸攻の左翼         

評価:★★★★☆

コメント:愚将だったと評価する人もいる。しかし彼の断固した意志そして航空時代の到来を予期した先見の明がなかったら真珠湾はあれほどの戦果を収めていなかっただろう。あまり精神論に偏ってなかったんじゃないかな?そういうエピソードは聞かないから。

名言(?)コーナー

『除隊したらモナコ行ってカジノ経営したいね』

『周囲に、面倒くさい事をやって貰って神様になったのだから、拝めば何か御利益があるだろうよ』(死語の東郷元帥に対し)

『男の修行』

あと、彼は逆立ちがうまかったらしい。       

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日本軍人評価~下村定 編~

本日は下村定(しもむら さだむ)をしょうかいします。

Images

(画像があったサイトが閉鎖しちゃったみたいで残念…軍人(中将、大将クラス)のイラストとか在ったんですが…)

かなりマイナーです(知る人ぞ知る みたいな感じ)…

日本最後の陸軍大臣です。(最後の海軍大臣は米内光政です。)

明治20年9月23日~昭和43年3月25日(交通事故死)
〔生い立ち〕
明治20年(1886年)9月23日に高知県に生まれる。
陸士20期で卒、陸大28期首席で卒。

1937年9月28日 参謀本部第1部長                                       1938年9月 東京湾要塞司令官
1939年3月 中将に昇進
1940年8月 砲工校長
1941年9月 陸大校長
1942年10月 第13軍司令官
1944年3月  西部軍司令官
1944年11月  北支方面軍司令官
1945年5月  大将に昇進
1945年8月  陸軍大臣兼教育総監
1959年  参議院議員
1968年 交通事故で死亡

第八十九帝国議会での最後の陸軍大臣 下村定大将の答弁
       昭和20年11月27日開会
児島襄 『史録 日本国憲法』 文春文庫版 161ページ  戦争責任追及の声

・・・衆議院本会議の冒頭質問に立った進歩党代議士斎藤隆夫は、次のように述べた。

「戦争責任の問題であるが、自分の意見では東条と近衛の両氏に責任があると思う。支那事変なければ、今次大戦はない。(今次)戦争の責任が東条大将にあれば、支那事変の責任は近衛公にある。無力な汪精衛を引き出してきた事実、三国同盟を結んだ事実、これらは米英への挑発といわねばならぬ。日米会談は何故出来なかったか。
東条大将は戦争犯罪人となっているが、近衛公は未だ宮中に関係している。これは国民の思想に悪影響を与える。これを放置するのは何故か」
拍手、そして怒号にも似た賛意表明のかけ声がわき起こった。斎藤代議士は、日本に軍国主義を横行させた陸軍の責任についても、質問した。黒い背広姿の陸相下村定が答弁に立ったが、下村陸相は壇上に両手をつき、深く頭を下げた。

「・・・・・軍の指導者が間違っていた。さらに許すべからざるは、軍の不当なる政治干渉である。この結果、国家を重大な結末に導いたのは、なんとも申し訳ない。陸軍の最後にあたり・・・全国民に衷心よりお詫び申し上げる」

どのような答弁をするかと静まりかえっていた議場は、一言を率直さとともにしぼりだし、一句を悔恨の苦渋とともにはきだし、壇上に身を伏せる下村陸相の姿にざわめいた。

「私は陸軍の最後にあたりまして、議会を通じてこの点につき、全国民諸君に衷心からお詫びを申し上げます。陸軍は解体を致します。過去の罪責に対しまして今後、事実をもってお詫び申し上げること、事実をもって罪をつぐなうことは出来ませぬ。まことに残念でありますが、どうか従来からの国民各位のご同情に訴えまして、この陸軍の過去における罪悪のために、純忠なる軍人の功績を抹消し去らないこと、ことに幾多戦没の英霊にたいして、深きご同情を賜らんことをこの際切にお願いいたします。」

          (↑知る人ぞ知るこの人の名言。)

議場には、わかった、もういいぞ、という声がひびいていたが下村陸相の言葉の終りは、たまりかねむせび泣きと拍手におおわれた。・・・

2日後の11月30日 内地復員を終えた陸海軍省が廃止、
 残務整理と外地からの復員業務のための復員省ができる。
 この日下村陸相は宮中に参内、復員が順調に進んでいることと、改めて敗戦のお詫びを奏上した。
 8月15日以来背広姿であられる天皇は、この日、久しぶりに大元帥服をお召しになった。

 『ほんとうにご苦労であった。』

と大元帥陛下は勅語を賜り、最後の儀式は終わった。
ただちに天皇は軍服を背広にお召し代えになった。

大日本帝国陸海軍は永遠に姿を消した。

「敗戦と言うな!終戦といえ!」と言う名言(?)も残している。
あまり知られていない人ではあるが、良識派の人であったと思われる。支那事変に関しては、拡大派だった。資料があまりないんでこの辺で…(いい加減?)

評価:★★★★☆

コメント:目立った活躍もなく、失敗もないこの人…。まあよく最後の陸軍大臣をあの混乱期に務めてくれたと思います。

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